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客観的な判断でグローバル社会を突き進め!

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2018年度より小学校の全学年で道徳の教科化がはじまりました。
道徳は社会で生きていくうえで不可欠なものですが、明確な評価基準を定めたり、価値判断を下したりできるものなのでしょうか。
『モラルの起源』などの著書がある東京大学大学院の亀田達也教授は、「道徳は絶対的なものではなく、社会や集団によって大きく変わる」と話しています。

 

構成:野澤正毅 
撮影:石橋素幸 
編集:プレジデント社

ところ変われば「道徳」も変わる。「クールヘッド」で問題の解決を

BILANC16「道徳」亀田先生 東京大学大学院 人文社会系研究科 教授
亀田 達也 氏(かめだ・たつや)
東京大学大学院社会学研究科修士課程、イリノイ大学大学院心理学研究科博士課程修了。社会規範や正義の概念、集団での意思決定・協同行為などに関心を持ち、脳科学、経済学、進化生物学、情報科学など隣接領域の研究者とも共同研究を行う。著書は『モラルの起源』(岩波新書)、『合議の知を求めて』(共立出版)などがある。

~どんな社会にもルールや掟がある

道徳といえば、一般には「絶対的で普遍的な規範」と考えられがちです。しかし私は、「人間が生き残り戦略としてつくり出した知恵の産物」だと考えています。道徳とは相対的であり、社会環境によって大きく変わるものなのです。
確かに『旧約聖書』の「モーセの十戒」にある「汝、殺すなかれ」「汝、盗むなかれ」のように、古今東西、不変の道徳もあるかもしれません。ところが米国のジャーナリスト、ジェイン・ジェイコブズは、二律背反の道徳として商人道徳(市場の倫理)と官僚道徳(統治の倫理)の例を挙げています。「道徳」という同じ言葉でも、この両者の考え方は対極的です。"よい商人"は、顧客を平等に扱い、正直な商法を心がけることで信用を高め、商売を繁盛させます。正直さは重要な徳であり、創意工夫やイノベーションを生み出します。けれども、政治家や官僚は、そうとも限りません。"よい外交官"には、集団の防衛のための嘘や恫喝も必要です。外国よりも自国の利を重視し、相手に嘘をつくこともいといません。軍人にいたっては、外国の領地を奪ったり、外国兵を殺害したりすることもあります。なぜなら国益を追求するのが、彼らのミッションだからです。欺瞞や略奪、殺人さえも、手段として正当化されるわけです(図表参照)。

BILANC16「道徳」亀田先生図表
亀田達也著『モラルの起源』岩波新書、2017より一部抜粋

モラルは天から降ってはきません。日常から生まれる生存戦略、文化的、歴史的な特徴により変化します。極論すればマフィアのような集団でも、組織内に厳しい掟があります。つまり道徳は「特定の集団・社会において、構成員の利害を調整し、秩序を維持するために最適化されたルール」だと定義できるでしょう。

~打算のない道徳は存在しうるのか

かく言えば、次のような反論があるかもしれません。
「人間は誰しも、他人が苦しんだり、悲しんだりすれば、同情して手を差し伸べようとする思いやりや優しさを備えている。それは絶対的で、普遍的な道徳やモラルの根源ではないのか」と。
しかし、実は思いやりや優しさも、人間は生き残り戦略の武器として、相手によって使い分けています。生き延びて自分のDNAを残すことが、人間を含む生物の最大の目的だからです。
女性が出産して、母性愛に満ちあふれるのは、「オキシトシン」というホルモンが盛んに分泌されるようになるため。オキシトシンには、他人に感情移入したり、相手を信じたりしやすくなる作用があります。母親が献身的に赤ちゃんの世話をすれば、子どもの成育にプラスに働き、母親にとっても自分のDNAを残しやすくなります。母親の"無償の愛"は、生物的な利益にもかなっているわけです。
家族のような血縁関係、集落のような地縁関係で結ばれた集団を「内集団」、それ以外の集団を「外集団」と呼びますが、人間は外集団に対しても、親切な行いをすることがあります。例えば、被災地に寄付金や援助物資を送ったり、女性が抱えた重い荷物の半分を持ってあげたりすることです。しかし、そうした行動の裏に、「よい人だと思われたい」「モテたい」などという評判を気にする心が少しもなかったと言い切れる人が、どれだけいるでしょうか。
人間の社会が政治的である以上、すべての愛が無償であるとは限りません。他人に利他的行動を取るときは、「メンタライジング・ネットワーク」という合理的判断を担う脳の機構が活発に働くケースが多いのです。つまり、人間は同情だけで動くのではなく、「自分の立場を守るのにも役立つ」といった損得勘定もしているわけです。

~家族ではない恋人に無償の愛を注ぐ理由

ここまでの話だと、人間は非情で、打算的な生物のように感じるかもしれませんが、人間は家族以外の他人にも、自らの意思で無償の愛を与えることがあります。例えば、恋人に深い愛情を注いだり、親友との友情を信じたりすることは、誰にでもありうるでしょう。
同級生がいじめを受けていても、多くの子どもはメンタライジング・ネットワークを働かせ、安全な傍観者の立場をとります。ところが、恋人や親友がいじめを受けると、情動を司る脳の大脳辺縁系が強く反応して、ショックを受けるのです。大脳辺縁系は、自分や家族がいじめられたときにも反応する部位なので、恋人や親友は「家族と同様」と、脳が見なしていることになります。脳がそうした仕組みになったのは、人間の進化の過程が深く関わっていると考えられています。人間は原始時代、ゆるやかな血縁・地縁関係からなる100~150人ほどの共同体で暮らしていたらしく、仲間と助け合う必要がありました。そのため、家族以外の他人とも、絆を深められる本能を獲得したのでしょう。
思いやりや優しさを示す契機となるのは、相手の気持ちに共感する「情動的共感」、客観的に物事を判断する「認知的共感」という2種類の心理状態です。とりわけ、外集団を含む多くの人々と付き合わねばならない現代社会で重要なのは認知的共感です。
例えば、重篤な患者がいたとしましょう。主治医が情動的共感によって我を忘れ、適切な判断ができないと問題です。それよりも、認知的共感によって患者に同情しつつも、今後の治療を冷静に判断する方が適切でしょう。「ウォームハート」を持ちつつ、「クールヘッド」で相手のことを考えるのが、認知的共感と言えるのです。
人間は「家族」の外に出たら、商人的、官僚的倫理にさらされ、両方を行き来します。また、グローバル化によって価値観が多様化する今、日本の伝統的な道徳も変容しつつあります。汎用的な道徳はありません。感情ではなくクール(認知的)に共感することが求められるのではないでしょうか。

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