アップデートされた「退職金」のいま
いま注目が集まる、退職金・企業年金は、空前の人手不足や、雇用に関する法制・年金制度の相次ぐ改正を背景に、優秀な人材の確保・定着のためのツールとして有効とされています。そこで、令和の退職金・企業年金事情について、社会保険労務士の谷内陽一さんに伺いました。
構成:江頭紀子
撮影:神出 暁
編集:プレジデント社
第一生命保険株式会社・社会保険労務士 谷内 陽一氏(たにうち・よういち) 社会保険労務士、第一生命保険株式会社 団体年金部副部長。厚生年金基金連合会(現・企業年金連合会)、りそな銀行などを経て2019年第一生命入社。主著『WPP シン・年金受給戦略』(中央経済社)。 |
聞き手:德田 隆信 公益財団法人私立大学退職金財団 管理部 副主幹 |
~中小企業でも約8割が導入
德田 当財団の退職資金交付事業は、大きく分けて、① 教育基本法の趣旨に則り私立大学等と国公立大学の教職員との待遇の均衡を図ること、② 退職金という大きな支出に対し資金を交付して加入学校法人の経営の安定に役立つことで、教職員が安心して教育研究活動に専念できる環境を確保すること―を目的とし、広く社会に貢献しています。
谷内さんは第一生命で企業年金・退職金のコンサルティング業務に従事されているほか、第一生命経済研究所で年金や退職金制度について研究されていますが、そもそも退職金や企業年金の役割とは何なのでしょうか。
谷内 退職金制度は、従業員が退職する際に、雇用主(使用者)から金銭の支給を受ける制度です。実は、法令上義務づけられた制度ではないのですが、わが国独自の労働慣行として広く定着しています。
一方、企業年金は、「年金」というものの、実態は退職金を分割して支払うものです。これら退職金と企業年金を合わせて「退職給付」とも呼びます。大手企業は、退職金と企業年金の双方を用意している場合も多いですね。
退職金制度は江戸時代の“のれん分け”に由来し、「腕のいい職人をつなぎとめる目的でつくられた」など諸説あります。明治時代に広がり、戦後には退職後の生活保障という意味合いで、急速に普及しました。
現在の企業・団体における退職金には、① 優秀な人材の採用・定着、② 離職・退職の際の労使トラブルの回避、③ 税務上・財務上の優遇措置を受けることができる、といった役割があります。
德田 メリットは複数あるのですね。現在どの程度の企業が退職金制度を導入しているのでしょうか。
谷内 退職給付(退職金・企業年金)制度は、かつて9割以上の会社が導入していました。その後1990年代初頭のいわゆるバブル崩壊後は、リストラの一環として金額を下げたり、制度そのものをなくしたりする動きがあり、2000年代に入ると導入割合は徐々に減少していきました。しかし近年は導入割合の減少に歯止めがかかり、さらに持ち直しつつあります。
企業規模別にみると、規模が大きいほど導入割合が高くなる傾向にあります。従業員数300人以上の企業では、実に9割を超えているのです。そして、従業員数が300人未満のいわゆる中堅・中小企業においても、8割前後の企業が実施しています。わが国では退職金は企業規模を問わず、広く普及している様子がうかがえます(図表①参照)。
~ 退職金は過去の遺物ではない
德田 過去には経営難に陥った企業が、退職金の減額などを検討したり、時代遅れの制度だという声もあったりしましたが、やはり退職金には意義があるのですね。
谷内 確かにバブル崩壊を機に、金額の引下げや制度の解散・廃止が相次ぎ、「退職金は終身雇用が当たり前だった時代の遺物」と揶揄されていました。今でもこの20~30年前の常識にとらわれている経営者がいます。
しかし、「わが社には退職金なんてない」という主張は、退職金制度の普及率が8割を超えている状況では、なかなか受け入れられないのが現実です。
アメリカの心理学者ハーズバーグが提唱した二要因理論(図表②参照)に当てはめると、退職金は、制度があるからといって従業員のモチベーションが上がる「動機付け要因」ではありませんが、制度がなくなると、途端に従業員の不満感が高まる「衛生要因」なのです。
よって、退職金を一方的に廃止することは、従業員の満足度を下げてしまい、事業運営に悪影響を及ぼす懸念があります。先にもお伝えした通り、退職金制度の導入企業数がV字回復しているのも、退職金の衛生要因としての価値を見直す動きが出てきたということの表れでしょう。
德田 今また注目されつつある理由は、ほかにもありますか。
谷内 やはり近年の人手不足が背景にあります。職員を定着させるための施策としては、待遇改善がまず考えられます。なかでも着手しやすいのは、給与や賞与を上げることですが、一度引き上げると維持しなくてはなりません。企業の成長を目指すのであれば、ある程度、長期間雇用(定着)する前提にしなければいけませんよね。一方、退職金の支出は一時的なので、手段の1つとしてクローズアップされています。求職者へのアンケート調査でも、福利厚生は「企業選択のポイント」としては下位であるものの、「企業に安定性を感じるポイント」では第1位です(図表③参照)。
同一労働同一賃金の導入も影響しています。パートタイマーの募集でも、少額でも退職金が「ある」のと「ない」のとでは人の集まりが違ってきます。
社会保険料の算定には入らないということも、企業・組織側のメリットです。給与を上げると、そのぶん企業が負担する社会保険料も増えてしまいますが、退職金や企業年金の場合は影響がありません。同じ金額を給与として渡すより、税制的にメリットがあるのです。
余談ですが、離職・退職は、必ずしも円満退社ばかりではありません。とりわけ中堅・中小の法人においては、離職・退職に伴う労使トラブルを円滑に収める「手切れ金」としての役割を退職金が担っている部分も無視できません。
德田 退職金なしには好人材を集めにくいというわけですね。当財団の退職資金交付事業においても、学校法人には退職資金の安定供給や、掛金が経常的費用であることから国庫補助金などのメリットがあります。では、労働者にあたる教職員側のメリットにはどのようなものがあるのでしょうか。
谷内 教職員側のメリットは、退職所得控除が活用できる点です。退職金は勤続年数に応じて控除額が増えますが、平均的な退職金額であればほぼ非課税で受け取れます。同じ金額を給与で受け取ると、その税負担の差は歴然です。
また、加入は任意ですが、日本私立学校振興・共済事業団の積立共済年金制度やiDeCo(個人型確定拠出年金)などの選択肢にも着目すべきでしょう。やはり労働者にとって「退職金がある」ことは、将来の安心感につながるのです。
~ 「コスト」ではなく「投資」
德田 退職金制度にもさまざまあり、算定方法も多様だと聞きます。当財団の退職資金の計算式は、退職時の「標準俸給月額×在職期間に基づく交付率」です。交付率(基準交付率)は、国家公務員の退職手当と同等とするため、国家公務員退職手当法の自己都合退職の支給水準を参考に設定しています。一般的に、退職金制度にはどのようなものがあるのでしょうか。
谷内 退職金は、基本的には勤続年数と給与で算出されます。一般的なのは給与比例制で、退職時の給与の額に一定率をかけて支払うというもの。私立大学退職金財団もこのパターンですね。率は各社の規定によります。利点は、退職時点の給与がわかれば、自分の退職金を計算できることです。雇用主としても管理しやすいというメリットがあります。
バブル崩壊後は、企業側の負担を減らすため、給与に連動させないポイント制を採用する企業も出てきました。勤続年数だけでなく、成果などを踏まえて毎年ポイントを積み上げていくパターンです。ただ、この制度の場合、最初にポイントの設計をしなくてはなりませんし、その後も毎年成果の管理が必要です。労働者にとっても、退職金額がいくらになるかわかりにくいというデメリットがあり、中小企業ではあまり普及していません。
そのほか、「何年勤めたらいくら」と明記する定額制もあります。
德田 さまざまな制度があるのですね。退職金を廃止して、そのぶん給与に上乗せする企業もあると聞きますが……。
谷内 正直おすすめできません。給与が増えると聞くと、制度変更当初は歓迎されるでしょう。しかし1年も経つと、上乗せされた給与は「当然のもの」になってしまいます。そして、将来業績が悪化した場合や、何らかの理由でトラブルになった場合で退職が避けられない事態に直面した際に「わが社に退職金はない」「そのぶん給与に上乗せしてきた」と説明しても、納得を得られる可能性は低いでしょう。
德田 最後に、退職金制度を役立てるために留意しておくべき点をお教えください。
谷内 退職金制度は、給与、賞与、福利厚生などを含めた総報酬管理(トータル・コンペンセーション)の枠組みで捉える必要があります。経営側から見れば「従業員をどう処遇するか」という人事労務管理施策の一環ですし、従業員側から見れば、給与・賞与・福利厚生などを含めた労働条件の1つです。つまり法人の実情に応じて、給与・賞与・福利厚生・退職給付その他をトータルで考える必要があります。
何より経営側には、退職金・企業年金を単なるコストと捉えるのではなく、人材確保のための「投資」と捉える発想の転換が求められます。空前の人手不足、インフレ及び賃上げに見舞われている今こそ、人材確保・定着のための待遇改善ツールとして、あるいは労使トラブルを円滑に収めるための保険として、退職金・企業年金を戦略的に活用することを考えてみていただけたらと思います。
德田 今の時代だからこその「退職金の意義」がよくわかりました。どうもありがとうございました。