リベラルアーツで「おかしな常識」を卒業
構成:吉村克己
撮影:石橋素幸
編集:プレジデント社
教養は偏見から人間を解放し人生を面白くするツール
APU(立命館アジア太平洋大学)学長 出口 治明氏(でぐち・はるあき) 京都大学卒業後、日本生命保険相互会社に入社。 |
~毎日社会常識のシャワーを浴びている
西洋には古くから「リベラルアーツ」という概念があります。一人前の人間が備えておくべき教養を指し、7つの分野(文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽)が、中世以来の伝統的なリベラルアーツでした。このリベラルアーツなり、教養なりを改めて定義づけるなら、「人間を自由にする学問」となるでしょうか。
人間はそもそも偏見のかたまりで、その意識や考え方は育った社会を強く反映しています。そこから人間の思い込みを解放してくれるのが「教養」というわけです。アインシュタインのエピソード―おそらく創作でしょうが―を1つご紹介しましょう。彼は18歳のとき校長先生に呼び出されて次のように叱られたそうです。
「君のような社会常識のない生徒は見たことがない。いったいどのように18年間を生きてきたのかね」
アインシュタインはこう答えました。
「先生、社会常識ってなんですか。僕が生まれ育った18年間のドイツ社会の独断と偏見のかたまりじゃないですか。そんなものを学んだところで、僕の人生に何の意味があるんですか」
校長先生はあきれて「この子は社会常識がないだけではなく、極めて頑迷で教師の言うことを聞こうともしない」と、落第にしたというのです。
基本的に私たちは、この逸話の校長先生のように「社会常識」というシャワーを毎日浴びており、偏見に凝り固まっています。リベラルアーツを学ぶことは、こうした偏見や日常の慣習に疑問を抱くきっかけとなります。
また、学ぶことは、人生における選択肢を増やしていきます。チェスを知っていればヨーロッパの街角で地元の人たちと楽しめますよね。このように教養は、人生におけるワクワクドキドキや面白さ、楽しさを増やすツールと言ってもいいでしょう。
~おいしい人生のため考える力が必要
実は僕は、教養とか品格という言葉が好きではありません。かくいう僕自身、教養と名の付く本をいくつも出しているのでお恥ずかしい限りですが、少なくとも友達と話すときには、そんな言葉は使いません。「教養とは……」などと語り始めると、大上段に構えている印象を相手に与えてしまいます。教養はそんなに大げさなものではなく、おいしいごはんを食べるようなものだと考えています。
おいしいごはんを因数分解すれば、いい食材をたくさん集め、上手に調理することですね。
おいしい人生も同じこと。食材の代わりに「知識」を集め、調理する代わりに「考える」のです。フランシス・ベーコンは「知識は力なり」と言いましたが、知識を持っているだけではダメで、使わなければ意味がありません。知識を使うこととは、考えることです。つまり、知識と思考の積が教養であり、それが「おいしい人生」をもたらすといえるでしょう(図表①参照)。
それでは、知識と思考のどちらを、より重視したらいいのでしょうか? これは時代によって変わります。「おいしいごはん」も同じことで、たとえば、僕は1948(昭和23)年生まれですが、子どものころは肉などめったに食べられませんでした。そんな状況下にあっては、調理法などは二の次で、食材のほうが大切でした。しかし、モノがあふれる現代にあっては、調理のほうが重視されるようになります。
「おいしい人生」も同じです。かつて知識を得るためには、わざわざ図書館に行って百科事典で調べるほかありませんでした。つまり、たくさんの知識を獲得すれば、それだけで人とは違う「おいしい人生」を送れたのです。
しかしデジタル化が進み、インターネットの時代になった今、私たちは以前よりはるかに速く、多くの知識を手に入れられるようになりました。技術が進化すれば、ますます知識を得るコストが安くなり、誰もが簡単に知識を得られるようになります。そうなれば、知識よりも思考の比重が重くなるのは当然でしょう。
知識を入手しやすくなった今、「考える力」の重要性が増している
~日本は勉強しない低学歴社会
このことは、今後の教育をうらなう際にも示唆を与えてくれます。つまり、「考える力をいかに鍛えるか」が重要になるのです。考える力は、「問いを立てる能力」あるいは「社会常識を疑う能力」とも言い換えられます。
最近、ある大手企業の人事担当役員と会食しました。長い付き合いなので、自由にものを言い合える関係なのですが、彼が次のようなことを言いました。
「最近の若者は根性がない。総合職で入ったくせに、転勤を嫌がるんだよ。そんな非常識な若者をのさばらせておくと、日本はダメになってしまう」
僕は驚いて、言い返しました。
「むしろ、あなたのような人が社会の上層部にいることが、日本をダメにするんですよ」
社命で転勤するのは当然という発想は、社員は住んでいる地域との結びつきなど持っているはずがない、あるいは、それよりも社命を重視すべきという偏見に基づいています。もしかしたらその社員は、地元のサッカーチームで子どもたちの世話をする大切な人物かもしれません。転勤を強要すれば、こうした地域との結びつきを断ち切ることになります。
また、その社員が男性で配偶者がいるのであれば、「パートナーは専業主婦に違いない」と思い込んでいるか、「パートナーも働いていて、転職を嫌がるのなら単身赴任もやむなし」と考えていることになります。二重にゆがんだ考え方に基づいているのです。(図表②参照)
グローバル企業では、転勤は希望者のみとなっており、転勤を強要する日本企業は社員のことを考えていません。こうしたゆがんだ社会常識の蔓延が、日本の弱さにつながっています。日本の弱さは、大学での学びにも表れています。本来、こうした偏見をただせる人を増やすのが、大学の役割ですが、日本の大学進学率は短期大学や大学院を含めても60%そこそこで、国際社会と比較すると、必ずしも高くありません(図表③参照)。
また、日本の大学生は勉強しないといわれますが、それは学生のせいではなく、企業の採用基準で成績を重視しないからです。ボランティアとかアルバイト、部活動が重要な採用基準になっています。大学進学率が低く、勉強する人が少ないという構造が、日本人の偏見を助長する一番の問題です。
SNSで、ある女性の手記を読んだのですが、赤ちゃんを連れて勤務するケースが増えています。確かに赤ちゃんの授乳サイクルと、集中力が持続する2時間は合致するので、休憩のついでにミルクを飲ませ、寝かせれば仕事の邪魔にならないわけです。
そのことを女性が夫に話すと、「本当にお前は赤ちゃんを連れて会社に行けるのか」といわれたので、「何言ってんの! アンタが連れて行くのよ」と反論したと書いてありました。
つまり、男性は無意識のうちに、家事・育児・介護は女性の役割だと考えているのです。その偏見が蔓延した結果、世界経済フォーラムが公表する「ジェンダー・ギャップ指数」で149カ国中110位と、男女不平等の国として恥ずかしい事態を招いているわけです。
こんな負担を押しつけられては女性が赤ちゃんを産む気にはならないでしょう。人口減少の根本原因は、先進国の中で一番ひどいともいえる男女差別にあるのです。
無教養の「ゆがんだ常識」は教育で矯正できる
~新時代のキーワードは女性、多国籍、高学歴
男女差別をなくす方法をすでに人類は見つけています。ヨーロッパで始まった「クオータ制」で、政治家や企業管理職・取締役などを選ぶ際、男女の偏りが出ないように割り当て比率をルール化する制度です。このように、クオータ制を実施すれば男女差別を是正できることが分かっているのに、日本では導入できていません。これもひとえに、日本人に考える力がないためでしょう。
日本人の思考力の低さがイノベーションを生まないことは、平成30年間のデータが示しています。購買力平価で見た日本のGDPシェアは、30年間で8.9%から4.1%へと、半分以下になりました。スイスのビジネススクールIMD(国際経営開発研究所)が発表する国際競争力ランキングでは1位から30位に急降下しています。時価総額の世界トップ企業を見ると、1989(平成元)年は上位20社のうち14社が日本企業でしたが、今はゼロです。
ここまで落ち込んだのは、製造業の工場モデルに固執し、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)などの新興企業を1つも生み出せなかったからです。GAFAやその予備軍と目されるユニコーン企業(評価額10億ドル以上の非上場で設立10年以内のベンチャー企業)を生み出すには、新しいアイデアが必要なのに、工場モデルを重視した日本は社会全体として考える力が乏しいのです。今後、新しい産業を興すキーワードは女性、多国籍、高学歴であることは明らかです。ここでいう高学歴とは、大学院修了者を意味しています。実際、各国の大学院生人口と労働生産性は正比例していますが、それは当たり前で、好きなことを徹底して勉強した人が多いほどアイデアが生まれ、生産性は上がるのです。「大学院生は使いづらい」などと企業経営者がいう国は停滞していくのが当然です。
ただし、高学歴といっても、誰もが偏差値の高い学校に進むべきだという意味ではありません。偏差値を高める受験術など身につけても、社会では役に立ちません。考える力はそこからは生まれないからです。
アメリカではハーバード大学の卒業生でも、成績が真ん中以下なら、一流企業は雇ってくれません。地頭はいいのでしょうが、真剣に勉強をしなかった人間とみなされるからです。それよりも、どんな大学でも成績が上位の人は引っ張りだこです。それは、自分が選んだ場所で高いパフォーマンスを上げられる人は、どんな職場でも全力を発揮するからです。
日本も国際社会に取り残されないためには、企業が採用時に「成績を重視する」と宣言するだけでいいのです。それが学びのモチベーションになるはずです。
~考える力を鍛えるには古典を熟読する
ここまで、リベラルアーツの話から、日本に蔓延する非常識のこと、教育のことなどを話してきましたが、では、これらを下支えする「考える力」は、どのように身につければいいでしょうか。
1つの方法は、考える力を持った先人を真似ることです。例えば、デカルトであり、アダム・スミスであり、アリストテレスなどの古典を丁寧に読み込むことで、考え方や発想のパターンを真似て身につける。それがリベルアーツ教育の根幹です(図表④参照)。
もし、あなたがリーダーとして成長したいなら、中国の唐の皇帝、太宗(李世民)の言行録である『貞観政要(じょうがんせいよう)』がお勧めです。有名な古典なのでさまざまな解説書が出ていますが、それよりも原文と書き下し文と語釈を備えた明治書院の「新釈漢文大系」の『貞観政要』上下2巻を熟読するべきでしょう。僕もかつて音読会を開催して、好評でした。完読が大変なら一部だけでも力が付きます。
古典に限らず、現代にも名著はたくさんあります。例えば、パリ大学で教鞭を執る小坂井敏晶さんが書かれた『社会心理学講義』(筑摩選書、2013(平成25)年刊)は、人間と社会をこれだけ考え抜いた本はないと思うほどの傑作です。
僕は古典でも新しい本でも何でも読みますが、最初の10ページをじっくり読んで判断することにしています。著者は読んでほしいと思って最初の10ページに最も精力を注ぐものです。そこで、面白いと思えば熟読します。速読はしません。10ページ読んでワクワク、ドキドキしない本は読みません。
本を選ぶ指標としては新聞の書評欄がお勧めです。全国紙は部数がケタ違いですから、書評家もいい加減には書けません。ある人の書評で本を読み、面白いと思ったら、その書評家のセンスと合うわけですから、その書評にしばらく付き合うのもいいでしょう。
ジョージ・オーウェルは『1984年』という小説で独裁者ビッグ・ブラザーに「無知は力なり」と言わせています。人の言いなりにならず、人生を謳歌するためにも「知識は力なり」と言えるように学び続けましょう。